0.01%に望みを託して依頼した再手術 次男の亮が交通事故に遭ったのは1992年の9月。小学校6年生のときです。ちょうど2学期の始業式の日で、学校から帰ってきて、遊びに行った帰り道でした。夕飯の仕度をしていたら、近所の方が「亮くんが、亮くんが」って、真っ青な顔で飛んできて、近くの幹線道路で車にはねられたと言うんです。事故現場に飛んでいったら、既に意識はなくて、頭の右側半分が潰れていました。耳からひと筋、血が流れていて、もう息もしていません。救急車が来て、近くの平成記念病院に運んでもらいました。
すぐに手術をしたんですけれど、もう助からないと医者に言われました。「潰れたのは右側でしたが、左からも出血したので99.9%助かりません」。そう言われました。でも、「死ぬのを待つだけなら、もう1度、頭を開いて手術してください」と、先生にお願いしたんです。「この状態で手術するところなんかないですよ」と言われましたが、「その場で死んでもいい、手術に失敗してもいいから、もう1度頭を開いてください」と、無理を言ってお願いしたんです。99.9%ダメだというなら、残りの0.1%に賭けようと思ったんですね。
平成記念病院というのは個人病院ですが、脳外科では有名な病院です。2度目の手術には、内科や麻酔科からも先生を動員してくださった。人体実験でもいいと思ったんです。結局、意識は戻りませんでした。でも、少なくともそのときは死ななかった。「1日もつか、2日もつかはわかりません」と、先生には言われました。「もし、3日間生きたら、生き伸びるかもしれない。でも、植物状態になるかもしれません」とも。それはそれで良かったんです。私としては手術してもらったことで満足だったんですね。
3日間、生きました。「先生、3日間生きました」って言ったら、「そうだね」と言われただけでした。そのうち1週間生きたんです。事故の加害者の方が病院にいらして、「どう祈ったらいいですか?」と聞かれました。「今日の状態が明日も続くように――そう祈ってください」とお願いしたんです。「治ってほしい」というより「生きてほしい」という思いでした。
集中治療室では耳元で音楽を流し続けていた 何日かたって脳波の検査をしました。脳が死んでいると、脳波は真っ直ぐ平らです。ところが、ほんのちょっとだけ上がっていたんです。つまり、脳死ではなかったんですね。意識はないし、自分で呼吸もできないという状況がずっと続いていましたが、生きる可能性はあると思いました。
亮は集中治療室(ICU)にいました。今では考えられないことですが、先生が「どんなことをしてもいい」と許してくださった。
亮の頭蓋骨は事故でボロボロになってしまったので、真ん中の部分だけを残し、ほとんど全部取り除いた状態でした。脳が頭蓋骨に覆われていないので、仮に動いて何かにぶつかると、命が危ないと言われました。それで、大至急で真綿の布団を作りまして、亮の頭の周りをそれで囲って、さらにその外側から両足の内側で頭を挟み込むような格好で、私が枕元に座ったんです。24時間、トイレに行く以外は、ずっとそうして亮の顔を見ていました。
亮の耳元では、ずっと音楽をかけていました。モクモクと煙をたいてお灸をやったこともありましたね。そういうことを先生が許して下さったことは、今考えても驚きです。看護婦さんたちも応援してくださったし、他の患者さんたちも「亮君が生きたら、皆生きられるね」と励ましてくださった。
ずっと意識のない状態が続きました。ところが10日ぐらいたったとき、指がピクっと動いたんです。先生は「そんなことありえない」とおっしゃったのですが、確かに動いたんですね。最初は、なかなか先生が見ているところで動かなかったのですが、そのうち先生も指が動くのを見て、「もしかしたら生きるかもしれない」と――。
そこからは、トントン拍子でした。私は当時、赤い車に乗っていたんですが、あるとき「おー」「かー」「さー」「んー」と、うわ言みたいに本当に何かを話し始めたんです。意識は戻っていなかったのですが、1つひとつの言葉をつなぎ合わせていくと、「お母さんの赤い車で病院に僕を連れて行って」。そう言ったんです。事故現場で自分が倒れている姿を見ていたんでしょうかね。それが最初の言葉です。
奇跡の回復後に発症した予想以上の後遺症 そのうち目を開けました。右目は事故でつぶれてしまって、最初は見えませんでした。立つことも、歩くこともできませんでした。脳をやられてしまったので、そういう動作を身体が忘れてしまったんですね。最初は車椅子でリハビリです。記憶もなくしていましたが、私のことはすぐに「お母さん」とわかりました。不思議です。
事故でボロボロになった頭蓋骨の破片を、私は大事にとっておきました。使えそうな破片には穴を開け、パズルのように糸で縛ってつなぎ合わせて、埋まらない部分は速乾性のセメントを入れて、新しい頭蓋骨ができ上がりました。でも頭を触るだけで激痛が走るので、ずっとヘルメットをかぶっていました。その後、何年間も頭が爆発しそうに痛いと痛がって、髪の毛を洗うのもひと苦労でした。
12月に退院して、3学期からは学校に行きました。奇跡ですよね。事故直後は、99.9%助からないと言われたわけですから。こう話すと一気に回復したかのように聞こえるかもしれませんけれど、実際は薄紙をはがしていくように、毎日ほんの少しずつ回復していったんです。
しかし、大変だったのはその後の後遺症です。事故で頭が潰れたとき、前頭葉が壊死してしまって、感情をコントロールすることができなくなってしまったんですね。加えて脳の中が傷だらけになってしまった後遺症で、てんかんを発症しました。思春期だったということもあって暴れるんです。とりあえず始業式は行きましたけれど、学校には行けなくなり、あちこちの精神科で入退院を繰り返すことになりました。
亮は事故によって、生まれ直したようなものだと思うんですね。事故に遭ってから意識が戻るまでは、私のお腹に戻っていたようなものです。意識を取り戻したとき、「オギャー」と、もう一度生まれて、たった3カ月のうちに12歳になってしまった。そのひずみを、後遺症と闘いながら何年間もかけて調整してきたんだと思います。
平成記念病院の先生にも「お母さんは治ると思っていらっしゃるかもしれないけれど、そう簡単なものではありませんよ」と言われました。それがどういう意味なのか、具体的には言われなかったので、そのときはわからなかったんです。といいますか、そのときの私は、これだけ短期間で治ったんだから、同じペースでどんどん元気な亮に戻って行くことに何の疑いももっていませんでした。
でも、現実的にはそうならなかった。本当に県内あちこちのいろんな病院に行きました。今でも忘れられないのは、藤枝から浜松の病院に連れて行くとき。高速道路を走っていたんですが、私が運転している車の中で亮が暴れ出して、バックミラーを外すし、突然サイドブレーキ引くし……。私も命がけでした。
「この子が死んでくれたら」と思ったことも 私が今のような仕事をすることになったのは、すべて亮の交通事故がきっかけです。福祉というのは、それまで知らなかった世界ですね。障害をもつ人たちやその家族が、どんなに苦しんでいるかを初めて知りました。
亮の場合、受け入れ先がなかったんです。知的障害と精神障害、両方の障害があったので、知的障害の人たちだけがいる場所では知的レベルが高すぎるし、うつ病や統合失調症など、精神障害の人たちの中では、コミュニケーションがとれず困ってしまう。
事故の後も、普通の学校に通っていたのですが、勉強にはついていけませんでした。中学は行ったり行かなかったりで、先生が「養護学校へ行こう」と言ってくださったこともあります。でも、先天的な知的障害とは違いますから、本人のプライドが養護学校へ行くことを許さないわけです。
そんなふうでしたから高校も行くところがなくて、藤枝東高校の夜間に入れてもらったのですが、登校したのは1日だけ。先生も訪ねて来てくださったんですけど、結局行けないんです。その翌年、もう1度入学しましたが、やはり登校したのは1日だけでした。
名古屋に寮完備の素晴らしい施設を見つけて、連れていったこともあります。ところが夕飯のとき脱走して、線路を伝って駅を見つけ、そこから電車に乗って帰ってきてしまった。初日のうちにです。亮は脳外傷の後遺症で、方向がわかりません。ですから周囲の人たちに道を聞いて、切符の買い方も教えもらって、必死で戻ってきたんだと思います。
そうなると、精神病院以外に選択肢がないわけです。今も通院はしていますが、4年ぐらい前まで、何度も入退院を繰り返していました。ところが精神病院というのは、ずっと入院させてもらえないんです。3カ月が最長なので、すぐまた家に帰ってきます。帰って来てはまた暴れて……その繰り返しです。
そんな状況ですから、私は当然、外で働くことはできませんでした。正直、亮が暴れ出して手に負えなくなると、「この子が死んでくれたら」と思うこともありましたね。事故の後、あんなに「生きてほしい」と思っていたにもかかわらずです。亮は3人兄弟の真ん中なのですが、当時は亮だけでなく、主人や長男もよく暴れました。自分でも、どう乗り越えてきたのか、よくわかりません。毎日、ただ必死に生きてきただけです。
求む!国産小麦「ニシノカオリ」のタネ 病院や施設を転々とした結果、これはもう自分で亮の居場所を作るしかないと思うようになりました。それで1998年、近くに600坪の土地を借りて、農業を始めたんです。私、単純なんですね(笑)。経験がなくても土地があれば何かできるし、自然とのふれあいがいちばんいいんじゃないかと思ったのが、農業を選んだ理由です。
もう1つ、「社会に居場所がない人たち」の存在に気付いたということもあります。例えば、亮のように、精神障害と知的障害の両方を抱えているために、どちらの施設にも行けない「福祉の谷間」にいる人たち。亮の事故がきっかけになって、私の周りに、困った問題をかかえたお母さんが集まるようになったんです。
最初のメンバーは亮を入れて3人。キュウリやナスなど、無農薬で野菜を栽培していました。働く喜びを知ってほしかったので、まだ何も収穫がないうちから、時給150円出していました。私も収入はありませんから、自分の貯金からあげていたんです。
でも畑でも、亮は暴れ出すことがありました。農機具をもっているので怖いし、虫よけ用の網やシートを滅茶苦茶にしてしまうわけです。困ったなと思っていたとき、「そうだ麦を作ろう」とひらめいたんです。野菜よりも手がかからないと思ったんですね。ただの小麦じゃつまらないので、いろいろ調べているうちに「ニシノカオリ」という、パン作りに向いている小麦を見つけました。小麦は寒冷地で栽培されるものが多いのですが、「ニシノカオリ」は西日本の温暖地でも育つ新品種です。
そんなとき「国産小麦を楽しむ会」という会合が、都内のホテルで開かれることを知りました。2002年のことです。「ニシノカオリ」を作っている九州沖縄農業研究センターの方も参加されることがわかり、当日、1人で出かけて行ったんです。全国各地から研究者や業界関係者が集まった大きな会場で、マイクをつかんでこうお願いしたんです。「私は障害者と一緒に自分の畑で小麦を育て、皆でパンを作りたいと思っています。九州沖縄農業研究センターの方、どうぞニシノカオリのタネを譲ってください」。事前のお断りも約束もなしで、突然マイクをつかんでお願いしたんです。九州沖縄農業研究センターの方は快く「いいですよ」と、20キロのタネを送って下さった。
障害者が主役の「ベーカリーカフェ風」誕生 小麦の栽培は、口では説明できないくらい大変でした。何しろ私も含め、全員が素人です。その年は異常に梅雨が長くて、農薬を使っていないので、カビや赤ダニにやられそうになりました。刈る機械がなかったので、600坪に実ったムギを最終的には私1人で、雨のなか、鎌で刈っていったんです。刈り取ったムギを置く場所がなかったので、今度は近所じゅうの農家さんにお願いして、使っていない納屋やビニールハウスのスペースを貸してもらいました。素人の強さというか、知識がないからこそできたんでしょうね。
賠償金と自分の貯金とを合わせた資金で、2002年11月、「ベーカリーカフェ風」をオープンしました。実はずいぶん長い間、事故の賠償金というものがあること自体、気付かずにいたんです。2000年ある日、保険会社の人がやって来て「何か魂胆あるんですか?」と聞くんですね。最初は何のことかわかりませんでした。気がつけば、亮の事故から8年が過ぎていました。そのくらい毎日毎日、亮の病院探しに奔走して過ぎた8年間だったわけです。
「ベーカリーカフェ風」のオープンに先駆け、02年2月、NPO法人「風」を立ち上げました。ベーカリーカフェは、障害のある人たち、社会に居場所のない人たちが大勢集まって働ける場所をつくりたいというのが大きな狙いです。周囲に声を掛けたら、障害のある人たちが10人ぐらい、ボランティアも5~6人集まりました。自分たちで栽培した小麦でパンを製造して販売したり、イートインもできるカフェです。 当初は、障害者に対する偏見があったせいか、地元の人たちの間には惓厭ムードもありました。ベーカリーカフェがある助宗という地域は、古くから農家をやっているお宅が多く、住民のつながりも強いエリアです。1軒1軒ご挨拶に伺い、趣旨をお話しまして、少しずつ理解を得られるようになりました。今では、私に怒られた子が、泣きながら近所の家に飛び込んでいくと、お菓子をもらって帰ってきたり、なんていうことが結構あります。
10年目の限界と支え続けるために必要な支援 ただ「ベーカリーカフェ風」は、設立以来、公的な支援を一切もらわずに運営しています。この10年間、地元をはじめ、たくさんのお客さんが支え続けてくださったおかげで、何とかやってくることができました。お客さんたちの温かい心に対し、「障害者が作った」ということに寄りかかることなく、「本当にいい材料でいいものを作ろう」と頑張ってきたんです。
公的支援がなくても何とか経営はできます。しかし、それは私が睡眠を2時間まで削って、皆のお給料と運営費を確保してきたからなんですね。もうそろそろ限界です。今後は本当に公的支援が欲しい。
公的支援や就労継続支援事業(B型)指定にしてほしいというお願いは、これまでもしてきました。そのために市役所へ何度足を運んだかわかりません。私は本当に自分が捧げられるすべての体力と気力と財産を、障害のある人たちのために絞り出してきたんです。彼らが自立できるよう、もっと強力にサポートしたいですし、サービスも充実させたい。しかし個人でやっていくには、与えられた時間も経済力も限界があります。
あるとき、市役所の福祉課の担当者に「あなたはただのパン屋じゃないか」と言われたことがあります。何の補助ももらっていないから「ただのパン屋」というわけです。でもそれはおかしい。私は金儲けや自分の趣味で、ベーカリーカフェをやっているわけじゃありません。それは誰の目にも明らかだと思うんです。
「市内にあるB型施設は、どこもまだ定員的なゆとりがあるから、これ以上、B型施設はいらない」と言われたこともあります。でも、なぜ増やしてはいけないのか。その理由については釈然としません。市役所の職員だって、いろんな就職先のなかから市役所を選んだわけじゃないですか。どうして障害者には選ぶ自由がないのでしょうか。
行政で福祉に関わる人たちは、もっと「障害者目線」でものごとを捉えてほしいと思いますね。人間としての優しさを、仕事で発揮してほしい。障害があっても働く喜びや仲間がいる喜びは同じです。そもそも障害の有無は紙一重じゃないでしょうか。どっちが上か下かということではないはずです。犯罪を起こした「健常者」は社会的に見れば「障害」であるはずです。それでも、もし自分は健常者という人が「あなたたちは障害者だ」と言うのなら、どんな人も社会で幸せに生きるために、健常者としての役割を果たすべきでしょう。
仲間と居場所があったから実現した変化 2008年に作った「藤枝市地域支援センター風」は、ベーカリーカフェで仕事できない人たちが、軽作業や創作活動をして1日を過ごす憩いの場所です。もともとは私の自宅だったところをリフォームしました。30人ぐらいが登録していて、毎日10人ぐらいが利用しています。
今年1月には念願だった「グループホーム緑の風」をオープンしました。全部で8部屋の個室があって、寮母さんが部屋の掃除してくれたり、手作りのおいしい夕ご飯を作ってくれます。建物は私が自分のお金で建てましたが、すでに静岡県の認定がとれましたので、障害者のグループホームとして補助をいただいています。
グループホームができて、実はホッとしているんです。私は今年63歳になりますが、これで私にいつ何があっても、亮は生きていけるんじゃないかと思うんですね。かつてのように暴れて、警察や救急車を呼ぶことは、もうすっかりなくなりました。この1~2年は、ほんのちょっと怒るということさえありません。自分の居場所ができ、仲間もできて、少しずつ変わってきました。
記憶も取り戻しています。昔、暴れていたときのことを「あのときは子供だったから」と冗談みたいに言えるようになって、つくづく長い道のりだったなと思いますね。1年とか2年で何とかなることじゃありません。長いスタンスで捉える必要があります。
次の夢は障害と福祉をPRするチンドン屋 この18年間の活動は、全部息子のためとも言えますが、よくよく考えてみると、私自身、自分の居場所が欲しかったんじゃないかと思っています。暴力、暴力の毎日のなかで、「自分の生きた証」が欲しかった。暴力まみれの毎日で「このまま死ぬのはイヤだ」と思っていましたから。いろいろカッコいいこと言っていますが、それが本音ですね。
私の活動の源は怒りです。行政の人たちの保身や偏見、怠慢に対し、障害を持つ人たちに代わって今も闘っているし、そういう権力に負けたくない。自分の怒りにつぶされたくないから、行動しているんです。よく「俊子さんはそんなに大変な状況でよく泣かないわね」と友達に言われますが、悲しむと行動がとれなくなります。亮が99.9%助からないと言われたときも泣かなかったし、それがエネルギーになった。不可能と言われたことが、私のエネルギーになって、亮は今も生きています。
要するにいい加減なんでしょうね。深刻にならない。99.9%ダメだと言われても、「そうか」といい加減に受け止めれば、頑張ろうって気になれる。正直、私はあのとき「亮は死なない」と思っていたんです。
もう1つ、私がやり残している夢はチンドン屋です。うちのメンバー皆をチンドン屋にして、市役所の前を練り歩きたい。障害者に対する偏った見方を直してもらうためのプロモーションです。障害とはどういうものか、福祉とは何のためにあるのかをチンドン屋を通して考えてもらう。これまで思ったことは全部実現してきましたから、チンドン屋もきっと日の目をみると信じています。
岸 俊子
静岡県藤枝市生まれ 藤枝市在住
【 略 歴 】
1992 次男が交通事故に遭い、一命はとりとめるが重い後遺症を患うことに
1998 障害者が共同作業できる農園をスタート
2002 NPO法人「風」 設立
「ベーカリーカフェ風」をオープン
2008 「藤枝市地域活動支援センター風」開設
2011 「グループホーム緑の風」設立
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補足:2011年 就労継続支援B型事業所開設